路線

2003年4月22日
あるプラットホームの向かい側。

通過待ちのため、少々停止している電車の窓に、女は肩をつけ、国際空港行きの特急電車が疾走していく姿をなにげなく見ようとしていた。はや夏日かと思われる程、暖かく、太陽は空気をふやけさせていたため、いつしか眠気と正気の狭間に心はいた。

生物のような気配を感じるものが視界をくぐり抜けて、列車がホームの存在に一瞥もくれず、通り過ぎようとしたその瞬間、線路の隙間に落ちていったような感覚を覚えた。音は聞こえない。だが空気が重めに振動した気がする。そして、ここに停まる予定を持たない電車がなぜか鈍い音を立てて緊急停止した。女は気になり、対面式の座席から立って、ホームに出た。

覗きこむと、ゴム人形のように白く、なぜか裸の人の体が手前のレールに対し45度ぐらいの角度で横たわっており、その右足は刃物で綺麗に切断したような紅い断面を見せた。レール幅から考えると頭は奥のレールにちょうどぶつかっていると思われた。葬式の棺の中の人のような質感を醸し出している。おそらく即死であろう。

駅員は慣れた様子で管制に連絡をとり、異変に気付いた乗客は次々にそこを覗きこみ、気持ち悪いだの、食欲がなくなるだの、携帯のカメラでその証拠を友人に送るものさえ現れた。あまりに肌が白かったので、飛び込んだ者に対し、オレの女になればよかったのにと言い出すものもいた。実際は50代の男性と推定されるのに。身分証明を何も身につけていないので、あくまで推定である。

あるプラットホームの向かい側

空港行きの特急の車内、ビデオの早送りの映像をみせる窓に、男は体を向け、しばしの別れをする母国の姿を見ようとしていた。これから向かうフィリピンは今日の気候よりも、温暖であるだろう。しかし、春の日ざしはある決断を思い出させた。

男は50代にして、全てを失った。どうしようかと途方にくれつつ、駅のホームで列車を待っていた。いつもより、少々間隔があるなと思ったが、早く帰った所でなにもならないと考えた。「隣の駅で人身事故があり…」
自分と同じ境遇の人間がまた1人、死のダイビングを試みたらしい。明日、この放送を流させる原因になるのは自分であるような気がした。

混乱するプラットホームのベンチに雑誌がぽつんと置かれている。男はそれを手にとると、ペラペラと捲り始めた。その中に、老後を海外で生活する人々のルポが載っていた。いい身分だなとつぶやいたが、よく見るとフィリピンはデポジットがあれば簡単に永住許可がおりるらしい。幸せそうな写真を凝視し、この状態に成るには借金しまくり、海外に高飛びしてもいいのだと思い付いた。

混雑する駅を逆走し、街に出て金を限界までかり、黒い養子縁組を結び、デポジットの基準を満たし、国際空港行きの特急列車の人となった。

あるプラットホームの向かい側

女はホームを通り過ぎる列車の中の50代の男と目が合った。何か気になって降りてきたが、通過列車はいつもと同様に、ホームの存在に一瞥もくれず、通り過ぎていく。

脳裏に突然浮かんだ嫌なイメージを春の陽気のせいだと決めつけ、女は再び列車に戻った。

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